今日は技能検定の試験日だったんですね。試験場所は、塩川にある会津高等技術専門校で、12:30 集合。会社で希望者を取りまとめてたので、半分はノリで申し込んでいた。会社の同僚と4 人で、半導体製品製造(集積回路チップ製造作業)の2 級では無く、一気に1 級に申し込んだ。2 級を受けても、1 級の方が上なわけだし、受験条件にも該当したので、みんなで半分悪ノリで1 級を受けよう!と。
それでも、全員合格を目指して、その中で唯一2 級を持っている人が一人いたので、その人を先生に、仕事の合い間を縫って勉強会をしていた。・・・んだけど、突然の長期休みに入ってしまい、消化不良のままになってしまっていた。あとは各自で勉強するしかないんだけど、テキストとか過去問題とかを少しづつ見ていこうと思いつつも、メンドくてなかなか手がつかず。結局は、試験日前日の一夜漬けのみな感じで、今日の試験に臨んだ。でも、捨て試合ではなく、受かろう!とする気は満々。休みがタップリあったのに、勉強する時間もタップリあったはずなのに、落ちたなんて言ったらどうなるやら。。
この歳になると、勉強なんて、ましてや試験なんてする機会がない。記憶だと、数年前に危険物取扱者の乙4 類を受けて合格した記憶と、その前だと、運転免許で実技に一度落ちたぐらいしかない。。
結果と手応えはと言うと、ややある。自信があるとは言えないが、自分的に全問題の半分弱は分かったつもり。ただ合格ラインの60/100 点?はと言うと、それ以外の問題で運よく当たっている事を祈るしかない。問題の中身としては、テキストなんか見るよりも、過去問題だけ見とけば、かなり答えられたと思う。一応やってはいたが、たかをくくっていた部分もあり、少ししか見ていなかった。。。あと、も少し見とけば・・・と悔やまれる。
次は、2/8 (日)に学科試験が行われるので、それに向けて過去問題をガッツリ勉強!というより、丸暗記で勉強しようと思います。
2009年1月25日
2009年1月13日
色々な不安が。
休みに休みが重なって、ホントは今日から出勤日のところを、妻の退院介護という事で休んでいた。明日から出勤だなと考えていた矢先、今日出勤していた会社の人から、また連絡があった。
「2/15 (日)まで休み延長。」
いやいや、有り得ないでしょう。何があったか知らんが、そこまで不況ですか。それにしても休み延長しすぎでしょう!というわけで、他の友人にも逆に問い合わせを入れてみるが、やっぱり同じ返答。これでは、2008/12/13 (土)~2009/2/15 (日)まで、通算2 ヶ月以上休みではないか。。。休みといっても会社都合の休業なので、仕事しなくても60% 保障が付いてくるのは嬉しい(のか?)が、それだけ休んでしまった後に出勤なんてできるのか?もう来なくていいなんて言われないのか?とか、いろんな不安が込み上げるわけですよね。
とは言うものの、、、心のどこかでは、ラッキー!めっちゃ休みや!とも思っている。。
さて、これからどうしようか。
「2/15 (日)まで休み延長。」
いやいや、有り得ないでしょう。何があったか知らんが、そこまで不況ですか。それにしても休み延長しすぎでしょう!というわけで、他の友人にも逆に問い合わせを入れてみるが、やっぱり同じ返答。これでは、2008/12/13 (土)~2009/2/15 (日)まで、通算2 ヶ月以上休みではないか。。。休みといっても会社都合の休業なので、仕事しなくても60% 保障が付いてくるのは嬉しい(のか?)が、それだけ休んでしまった後に出勤なんてできるのか?もう来なくていいなんて言われないのか?とか、いろんな不安が込み上げるわけですよね。
とは言うものの、、、心のどこかでは、ラッキー!めっちゃ休みや!とも思っている。。
さて、これからどうしようか。
2009年1月12日
退院。
今日、妻が退院をした。本当は明日でも良かったし、その予定のために、前々から休みも取っていたんだが、早められることも可能だし、退院後の様子も心配だったので今日のうちに退院して、明日は様子を見ることにしたいと思った。ただ、今日は祝日なので、担当の医師が不在の中での退院となった。
退院って、なかなか立ち会うことも無いけども、あっさりなんだね。もともとの予定で、1/12 (月)午後と決めていたから、朝から帰る準備はしていて、昼飯を今や遅しと待って、喰って、さ~て帰るかっ!みたいに、そのまま出て行くだけ。なんか、ホテルのチェックアウトみたいな手続きとか特に無く、普通に荷物もって出てきただけ。
さて、俺も明日は休みだけど、あさってから1 ヶ月ぶりに出勤だ。
退院って、なかなか立ち会うことも無いけども、あっさりなんだね。もともとの予定で、1/12 (月)午後と決めていたから、朝から帰る準備はしていて、昼飯を今や遅しと待って、喰って、さ~て帰るかっ!みたいに、そのまま出て行くだけ。なんか、ホテルのチェックアウトみたいな手続きとか特に無く、普通に荷物もって出てきただけ。
さて、俺も明日は休みだけど、あさってから1 ヶ月ぶりに出勤だ。
2009年1月10日
退院日程が決まった。
手術以降、順調に回復をしていき、日に日に三分粥、五分粥、七分粥へと口に出来るものがパワーアップしている状況。毎日毎日見舞いに来ているが、妻のママも当初入院と手術に立ち会うだけだったのが、だいぶ延長して滞在していたし、今日は妻の兄貴夫婦も、山形へお出掛けがてら岩手から出て、立ち寄っていった。
今日の昼には、ちょいと自分の昼飯がてらにケンタッキーフライドチキンを買って、そんな妻の前で喰うたったわw。。。恨めしそうな視線が心地いいw。退院予定も、手術後1 週間の1/13 (火)には余裕で退院できそうだとの事だったが、前倒して1/12 (月)でも構わないとの事だったので、そうした。
今日の昼には、ちょいと自分の昼飯がてらにケンタッキーフライドチキンを買って、そんな妻の前で喰うたったわw。。。恨めしそうな視線が心地いいw。退院予定も、手術後1 週間の1/13 (火)には余裕で退院できそうだとの事だったが、前倒して1/12 (月)でも構わないとの事だったので、そうした。
2009年1月7日
手術後、無事回復中。
2009年1月6日
入院完了、無事手術。
昨日予定されていた、寿泉堂病院への奥様の入院が無事済んで、本当は昨日のうちに顔を出したかったんだが、爺さんの葬式もあったことだし、葬式帰りに病院って言うのも縁起が悪いだろうと思ったので、泣く泣く遠慮。で、今日手術なので、朝から面会をしに、うちの親と一緒に病室へ向かった。
麻酔を効きやすくするための点滴を事前にされているらしく、ややボーっとしているようだったが、いたって普通の妻がそこに居た。日を跨いだとは言え、葬式を済ませてすぐに手術を見守るのは、若干胸騒ぎがしなくも無い。ただ、爺さんも見守ってくれ!と願う。少し経って、担架で手術室に運ばれて行くのも見守り、待合室でただただ待つ。
約1 時間で終了との事だったし、俺と俺のママは、結構楽観しながら待っていたんだが、奥さんの親だけは、眼光鋭く手術室をにらみ続ける。相当心配なんだろうな。
1 時間が経過しても妻は出てこない、かれこれ妻の後からも2 人ほど手術室に入っていたんだが、先に入った妻よりも先に2 人とも出てきた。なかなか出てこないし、不安になりながら1 時間半が経過した頃、手術を執刀した先生に呼ばれた。手術は無事成功したとの事で、切除した腫瘍(今回の妻の手術理由は、子宮筋腫ね。)の写真と、手術の方法を事細かに説明された。きっと、昨今の医療ミスに対する回避行動なんだろうと思われるが、確かにあそこまで説明されると、家族としても安心できていいですね。
先生の説明が終わって、しばらく経っても出てこない妻。おかしいなと思いつつも、手術室に入って2 時間半が経過した頃だろうか、やっと出てきた。たぶん意識は無いんだろうなという顔で、辛かったのだろうか、頬に涙が流れた跡が見えた。病室に帰ってからも全く意識を取り戻さない。
病室に戻ってから、1 時間以上経過したかな?って時に、ふと目を開ける妻。まだ意識が朦朧としているんだろうか、定まらない視点と、話かけにも応じる様子が無い。また目をつむり、しばらくしてまた開いてを繰り返していくうちに、だんだん意識もハッキリしてきて、話かけにも答えられるように。ここまでくると安心。
ただ、しきりに腹が痛いことを訴える。看護師を呼んで痛み止めをしてもらい、何とか過ごしつつ、だんだん面会時間の終わりを迎える。奥さんのママは、だまってここに居座ろうかな、心配だから夜通し付き合ってようとか言いながら看護師に訴えるが、やはり病院側としてもプロだし、逆に気を使うとの一悶着がありつつも、なんとか滞在先のホテルへ戻り、俺も家へ帰る。
ま、とにかく無事手術が終わってよかった!
麻酔を効きやすくするための点滴を事前にされているらしく、ややボーっとしているようだったが、いたって普通の妻がそこに居た。日を跨いだとは言え、葬式を済ませてすぐに手術を見守るのは、若干胸騒ぎがしなくも無い。ただ、爺さんも見守ってくれ!と願う。少し経って、担架で手術室に運ばれて行くのも見守り、待合室でただただ待つ。
約1 時間で終了との事だったし、俺と俺のママは、結構楽観しながら待っていたんだが、奥さんの親だけは、眼光鋭く手術室をにらみ続ける。相当心配なんだろうな。
1 時間が経過しても妻は出てこない、かれこれ妻の後からも2 人ほど手術室に入っていたんだが、先に入った妻よりも先に2 人とも出てきた。なかなか出てこないし、不安になりながら1 時間半が経過した頃、手術を執刀した先生に呼ばれた。手術は無事成功したとの事で、切除した腫瘍(今回の妻の手術理由は、子宮筋腫ね。)の写真と、手術の方法を事細かに説明された。きっと、昨今の医療ミスに対する回避行動なんだろうと思われるが、確かにあそこまで説明されると、家族としても安心できていいですね。
先生の説明が終わって、しばらく経っても出てこない妻。おかしいなと思いつつも、手術室に入って2 時間半が経過した頃だろうか、やっと出てきた。たぶん意識は無いんだろうなという顔で、辛かったのだろうか、頬に涙が流れた跡が見えた。病室に帰ってからも全く意識を取り戻さない。
病室に戻ってから、1 時間以上経過したかな?って時に、ふと目を開ける妻。まだ意識が朦朧としているんだろうか、定まらない視点と、話かけにも応じる様子が無い。また目をつむり、しばらくしてまた開いてを繰り返していくうちに、だんだん意識もハッキリしてきて、話かけにも答えられるように。ここまでくると安心。
ただ、しきりに腹が痛いことを訴える。看護師を呼んで痛み止めをしてもらい、何とか過ごしつつ、だんだん面会時間の終わりを迎える。奥さんのママは、だまってここに居座ろうかな、心配だから夜通し付き合ってようとか言いながら看護師に訴えるが、やはり病院側としてもプロだし、逆に気を使うとの一悶着がありつつも、なんとか滞在先のホテルへ戻り、俺も家へ帰る。
ま、とにかく無事手術が終わってよかった!
2009年1月5日
お葬式。
昨日から続いた通夜も閉めて、今日は葬儀が行われた。場所は会津斎場で、親戚一同だけでもバスに乗り切れないほど。葬儀会場も、かなり大規模に借り切っていたにも関わらず、来賓の方たちが座りきれなかったようだ。一見、どこかの有名人が亡くなったときのような雰囲気で、600 人以上?集まったとの事。葬儀場の人も、こんな大人数の人を集めたことは例に無く、滞りなく済ませることが出来てよかった!との事だったようだ。ホントに凄い人だったんだ!と誇りに思う爺さんだったよ。火葬場でも、待合室に入りきれないし、骨を集める部屋でも入りきれなくて、ただでさえ年始のラッシュで混んでいる火葬場だったようで、隣の部屋にもはみ出るほどの大人数に囲まれて、爺さんは本当に逝ってしまった。
小さい頃、父方の爺さんの葬式に出た記憶しかないぐらいで、ほぼ初めて葬儀の流れに全部出席したんだが、悲しいものですね。涙よりも笑顔で送りたいと言われても、やっぱり無理なんですね。婆さんが言った、爺さんの体があるうちは悲しかったけど、「骨になっちまうと涙も出ねえ。」という言葉。やっぱり骨というのは抽象的過ぎて、その人の居る雰囲気やオーラや温もりや声や行動や、そこに居るすべてがその人だったんだなと、おれ自身も骨を見ると、それを爺さんと思うことがなかなか出来ず悲しみもかなり消えてしまった。
でも、爺さんのことは忘れないよ。忘れられないよ。
小さい頃、父方の爺さんの葬式に出た記憶しかないぐらいで、ほぼ初めて葬儀の流れに全部出席したんだが、悲しいものですね。涙よりも笑顔で送りたいと言われても、やっぱり無理なんですね。婆さんが言った、爺さんの体があるうちは悲しかったけど、「骨になっちまうと涙も出ねえ。」という言葉。やっぱり骨というのは抽象的過ぎて、その人の居る雰囲気やオーラや温もりや声や行動や、そこに居るすべてがその人だったんだなと、おれ自身も骨を見ると、それを爺さんと思うことがなかなか出来ず悲しみもかなり消えてしまった。
でも、爺さんのことは忘れないよ。忘れられないよ。
2009年1月4日
お通夜。
去年末におきた突然の出来事に、明日の葬儀に向けて、今日は親戚中が集まって通夜が営まれている。かく言う俺も、そんなみんなに混じって泊まっているんだが、もう一つ気にしているのは、もともと明日に予定していた奥さんの入院だ。ただそれも、こういう事態もあって、奥さんのママに来てもらってて、一緒に家に泊まってもらって、明日一緒に入院手続きをしてもらえる。なので、奥さんは昼間に一度、通夜に顔を出して、家まで送り、俺だけが泊まる準備をして、今爺さんの家にいる。
葬儀に向けて、棺桶に収められたんだが、今はそういうものなのだろうか、テレビ等で見る棺桶の印象とは違う、豪華な綺麗な棺桶だ。初めて知ったことがあった。棺桶は綺麗な水色の布張りで、孫一同として送った雪洞(ぼんぼり)も水色の光を放つようになっている。爺さんは、水色が好きだったんだよ・・・との事、俺も水色が好きになった。
爺さんを囲みながら、親戚一同で懐かしいビデオを見て、爺さんと婆さんの元気なときの映像を懐かしむ。小さい頃にしか会ったこと無いような名前も知らない親戚もいっぱいで、爺さんの人脈が伺える。偉大な人だった。腐敗防止の薬を塗られている爺さんの体は既に冷たかったが、みんなが触るもんだから、生きているように生温かくもある。今日が見納めだ。
葬儀に向けて、棺桶に収められたんだが、今はそういうものなのだろうか、テレビ等で見る棺桶の印象とは違う、豪華な綺麗な棺桶だ。初めて知ったことがあった。棺桶は綺麗な水色の布張りで、孫一同として送った雪洞(ぼんぼり)も水色の光を放つようになっている。爺さんは、水色が好きだったんだよ・・・との事、俺も水色が好きになった。
爺さんを囲みながら、親戚一同で懐かしいビデオを見て、爺さんと婆さんの元気なときの映像を懐かしむ。小さい頃にしか会ったこと無いような名前も知らない親戚もいっぱいで、爺さんの人脈が伺える。偉大な人だった。腐敗防止の薬を塗られている爺さんの体は既に冷たかったが、みんなが触るもんだから、生きているように生温かくもある。今日が見納めだ。